それは幸いの啓示だと誰かが教えてくれたから、貴女と共に見たいと願ったのだ。

 ◇ ◆ ◇

 季節は既に春先だと言うのに、繋がれた手はひどく冷たく凍えていた。
 そのくせ身体は火照って熱を生み、掌から伝わって汗をかく。滑りそうになる指先を必死で絡め合わせながら、少女は手を引いて前を走る青年について駆けた。
 いつもは二人隣り合って、同じ歩調で歩く鎌倉の町並み。ゆったりと流れる時間を感じながら歩く裏の小径も、今日は景色が視界の端を通って流れていくようだ。
「あつ、もり……さんっ、そんなに急いで、どうしたんですか!?」
 息も絶え絶えに先を急ぎながら、手を引かれる望美が問う。それに顔半分振り返った青年は、何かを告げたいような、それでいて告げることを躊躇うような面持ちで口を開いた。
「じきにわかると思う。急かすような真似をしてすまないが、もう少し我慢してくれるだろうか?」
 少女とは対照的に、息一つ乱していない敦盛の声は、どこか喜色を滲ませているようだ。
 常からゆるりと洗練された仕草を見せる彼が、こうも急ぐ様を見るのは珍しい。彼の胸の奥に仕舞われた隠し事は何だろうと、望美は疾走するに身を任せながら考えた。
 事の起こりはほんの十分前、突然望美の家を訪れた敦盛が、彼女に時間はあるかと問うたことから。特に予定のなかった望美は、彼の問いに二つ返事で「はい」と頷き、半刻ほどで済むからついて来て欲しいと、敦盛によって外に連れ出されたのだ。
 ――鎌倉での人知れず起こった戦いが終結して、ふた月と少し。戦場でも彼がこれほど必死に走る姿を見たことがない望美は、今は一心不乱に前を向く青年の後姿をじっと見つめた。
 今では見慣れたすっきりと短い肩口までの紫紺の髪が、さらさらと踊るように揺れる。真冬のように冷え込む外気に、オレンジ色のハーフコートが裾を僅かばかりはためかせた。
「じきにって……、せめて、どこに行くかだけでも……」
 教えてくれませんか、と告げる言葉は声にならず、風に吹かれて飛んでいく。
 さすがに十分も走っていれば、いかに戦場を駆けていた身でも疲れようと言うもの。目的地が見えずにただ引っ張られるまま道を行く少女は、ちらと一瞥を寄越した青年が優しく微笑む様に数瞬ばかり見入ってしまった。
「それは秘密だ。けれどきっと、貴女も気に入ると思う」
 深い色を宿した神秘的な瞳が細められて、刹那。緩い傾斜の坂道を登って、更に奥。何十段にも続く階段を引き上げられるようにして登ると、次第に木々の茂る小道が段々と開けていく。
 夕日が昇るには幾分早い、晴れ渡った青空が、やがて街路樹を分けて二人の視界を満たし始めた。
 そろそろ呼吸が辛くなってきたのだろう。有酸素運動に不規則に乱れた呼吸が、幾つもの坂道を登ってきたせいで悲鳴を上げる。
 もう、ギブアップ。少女がそう、声を上げかけた時だった。
「望美。……大丈夫か?」
 気遣わしげに名を呼ぶ声が聞こえると同時、不意に前を行く敦盛が失速した。あわやたたらを踏みかけた望美は、彼にぶつかるすんでのところでその場に踏み止まる。
 突っぱねた足元のほんの一メートル先を見れば、綺麗な湾曲を描く足場に、格子手摺が張り巡らされている。
 遠く前方を見れば、家の屋根が線を結ぶ地平線。そこから中心に、頭上には空の青。眼下には小さく連なる民家が広がっている。どうやら、彼は彼女の家から一番近い高台へと連れて来てくれたらしい。
「わ、いい眺めですね。こんな見晴らしのいい場所が、こんなに近くにあったんだ」
 息を整える間を惜しむように、飲み込んだ吐息の代わり、少女の口から感嘆の声が漏れる。彼女の様子にほっと安堵の息をついた青年へ、けれどふと、望美は首を傾げて彼を仰ぎ見た。
「だけど敦盛さん、急にこんな場所へ連れて来てくれて、どうしたんですか?」
 確かにここはいい眺めだけれど、特に急がなければ来られないような場所でもない。倍の時間は掛かるだろうが、ゆっくり歩いてきた所で何の問題もないように思えた。
 きょとんと問い掛ける少女の言葉には、敦盛がポケットから携帯電話を取り出す。時間を確認しているようで、大きな文字盤のデジタル数字を見るとすぐに空へ視線を移した。
「予報と空気の感じから察するに、そろそろの筈なのだが……」
「天気、予報?」
 益々首を捻った少女が、隣に居並ぶ敦盛の視線を追うように頭上を見上げる。
 ほ、と息をついて、少女が瞬きをした間だった。
「あ……」
 乾いた冷たい空気に、はらり、頭上から小さな白い粒子が舞い降りる。太陽の光に小さく反射して、煌めいたそれに手を伸ばせば、指先に冷たい水の気配を感じた。
 冷え切った体温を受けて手の中で溶けたのは、ほんの僅かな細雪だ。
「え、これ……雪!? もう三月なのに、どうして……」
 驚きに目を丸くした少女が、始めの一降りを皮切りに次々落ちてくる雪の結晶へ手を伸ばす。
 手摺ギリギリのところまで身を乗り出して、掴んだはなから溶けていくか細い雪。けれどはらりひらりと風に舞う様は、一足速い桜吹雪をちらつかせているようにも見える。
「ここ数日、冷えていただろう。今日は最高潮に気温が下がるから、雪が降るかもしれないと、昨日てれびで言っていたものだから」
「綺麗な景色を、私に見せようとしてくれたんですか?」
 先を予測するように尋ねた望美へ、敦盛は「いや」と苦笑しながら呟いた。
「それもあるのだが……貴女は、春先に降る雪の縁起にまつわる話を知っているだろうか」
「いえ。何かあるんですか?」
 ふるりと首を振る望美は、彼の先の言葉を促すように口を閉ざす。じわりと太陽が薄い卵色を帯び始めて、強く差した光が、彼の微かに染まった赤い頬を照らし出した。
 続けて告げられる、彼の告白には、目も眩むような思いを覚えたことだろう。
「春先に降る雪は幸いの象徴なのだそうだ。読んでまことの字の如く、“幸せが降る”と言うらしい。誰に教わったものかは、もう覚えてもいないのだが。だから今にち“誕生日”というものを迎える貴女に、見せたいと思った。――貴女と共に、見たいと思った」
 それはこれから迎える新しい日一日にも、彼女に幸いが降るように。彼女と幸いの道を歩いていけるように。そんな願いの込められた、彼なりのプレゼントなのだろう。
 言われて初めて気付いたように、望美ははっと息を呑む。己の誕生日をすっかり忘れてしまっていた少女は、思わず潤んだ瞳で彼を見上げた。
 目線一つ分高い青年の側に、もう一歩だけ歩み寄る。それからブーツの爪先で思い切り背伸びして、彼の腕に飛び込む形で無防備な頬に口付けを一つ贈った。
「こんな素敵な景色、贅沢すぎるプレゼントですから……お返しです」
 にっこりと望美が微笑み掛けると、敦盛は面食らったように目をしばたたく。小さく開いた彼の唇は、けれどすぐに笑みを象って、腕に抱きしめた少女の唇へと落とされた。
 傾いた日が、朱色を帯びて一際強く輝く。目映い輝きに照らし出された二人の影は、逆光になってぴたりと一つに重なった。



END


to 平結音さま

お誕生日おめでとうございます!
遅れに遅れてしまいましたが、3/8は結音さんのお誕生日とのことで、お約束しておりました敦望SSをお贈りさせて頂きます。
本当にギリギリになってしまってすみません><;
素敵ウィルハンSSを頂いておきながらこんないつもと代わり映えしないSSになっちゃいましたが、よろしければお納めくださいませ。
お持ち帰り・転載等、結音さんに限り可となります。
どうぞこの先も、結音さんにとってよい日々になりますよう!

['11年 03月 28日]

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